3-6. 聾児の子育てと仕事と

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聾学校の様々な方々

玄・2014年撮影

玄・2014年撮影

聾学校の乳幼児部は他に本当にいろんな親子がいて、
学校は東京都の町田にあるのだが、遠く静岡方面から通っている親子、
両親は健聴、二人の兄弟が共に聾の子もいたし、
両親が聾者、生まれた子供も聾の子もいた。(聾の親から生まれた聾児の事をコーダという)

私も主人も聴者であって、玄は「聞こえる両親の間に生まれた聞こえない子供」であり、日常家庭では口話でのやり取りの中に聾児が置かれていることになるわけだが、
両親が聾者の場合、生まれた時から両親の手話を見て育っている。
彼らにとって「口話法」を赤ちゃんに身につけさせることは私たちよりも難しい。

ここは手話が禁止の聾学校なので、彼女たちのやり取りも学校内では基本的には手話を使うことは禁止だったので大変だったと思う。

「はっきり言って仕事の方が楽ですよ」

乳幼児時代の頃は通常の乳幼児の世話に聾学校、病院通い、プラス家でのやり取り遊びに先生への日記、宿題。。
そして親がどんなに子供に対して力を入れて接していてもこの時期、言葉としての「成果」があまり目に見えない。
(前の記事にも書いたが、この時期は根っこに栄養を与えている時期なので。あせらないように。芽が出るのは思春期以降です。と何度も言われていた。)

先生方は「この時期のお母さんが一番大変ですが、でも一番大切な時期なんですよ。成果は目に見えなくてもお子さんは成長されていますよ。一緒に頑張っていきましょうね」とよくねぎらってくださった。

大きなホールでみんなとお歌遊びがあってそれが終わった後に、姉妹で聾学校に通っていた子達のお父さんに対して年配の先生がコンコンと諭しているのがちょっと聞こえてきた。

「あのね。パパさん。あなたも仕事でお疲れかもしれませんが、ママさんは一番大変な時なの。本当につらいのよ。もっと助けてあげて。はっきり言って、仕事の方が楽なのよ。」

きっと個人的に先生に相談してたからなんだろうけど、、
先生みんなにも他のパパたちにももっと大きい声で言って欲しいかったな~。って思った。

子育て、家の事と自分の仕事

自分の仕事はと言えば
私自身はこれからデザインや建築の仕事がしたくて意気込んでいてた矢先に玄を妊娠し、妊娠中は「まあ保育園があるさ~」なんて思っていたら
生まれた子に障害があってそれどころではなくなった。でもその時は仕事もしたかった。

「出来ちゃった婚」でお金がなかったことと、やはり家の事、子供の事だけでなく「自分の仕事の世界」も持っておきたかった。
少しながらでも子供や家の事と自分の仕事とのバランスを取っておきたかったのだ。

それから。。最初勤めた事務所で先輩に「転職の時の履歴書のキャリアの欄が、あまりにもブランクが空いていたりすると次、仕事をする時に望む仕事ができなくなる。」
と聞いていて、その言葉が自分の(特に仕事面での)未来を不安にさせていた。
(狭い世界で自分を苦しめてて、、若かったのだなあと思う。そんなの全然そんなことない。未来なんて、どんな経験がどんな素晴らしい出会いや出来事が起こるかわからないものなのに。タイムトンネルで昔の自分にちょっと囁きたい気持である。)

聾学校に病院にと毎日が忙しいので家でできる仕事なら大丈夫かな。。と知り合いからちょこちょこインテリアの仕事や建築図面の仕事をいただいていたりした。

しかし、どうして子供っていつもやっている家事の時はおとなしくしているのに
いざ仕事をし始めるとさわぎだすのだろう!!

「家でできる」のは非常にありがたいが、、やはり仕事中は子供とは別の部屋か他の人に面倒をお願いするなどしてその時間は自分の心もきっぱりと「家&子供」と分けられていないと
なかなか難しいと思った。

とはいえど。。振り返るとなんだかんだ言いつつも「全く何年もやってないよりは細々と(子供と格闘しながらでも)やっていてよかったなあ」と後に思う時があった。

でもさらに20年たった今思うことは、(うまく表現できないかもしれないけど)
仕事の内容は何であれ「自分のやりたいこと、活動」があって、それが他者の役に立って、結果、人が価値をつけてくれたりお金を払ってもらったりするというのが理想形だと思う。
(自己表現とも言うかもしれない。必ずしもお金に変えなきゃいけないというものでもないと思うけど)

「自分にしかできないこと」は最大の武器にもなりえるし、「子育てで辛かった経験」は人を大きくさせると思う。

聾の子を育てる。というのは他の人には出来ない貴重な経験であって視野も広がり、非常に勉強になったと思う。